DORCHADAS 前編


 落ち逝く月は下弦。

 ぽつりぽつりと並び立つ街灯が足元に纏わりつく影を縦に伸ばし、地面のみならず壁にまでテリトリーを広げていく。

 風が頬を切り裂いていくような錯覚に囚われても、それを愚かな妄執だと嘲るものなど皆無。

 断言できるほどの深さに深さを重ねた夜気が、全身を撫でて唸りのような嗤いを耳朶に絡みつけながらすり抜けていく。

 母国のそれとは程遠い、異国の石畳、異国の石組も、すっかり見慣れたはずだった。

 父と母に手を引かれ、儚い記憶を捨てて新たな地に腰を落ち着け、この国における「一般的」に分類されるであろうレベルの生活水準を満たし始めたことすら、自然のことと受け入れられるほどに年月を重ねていたから。

 冬の寒さに息を白く弾ませながら、俺、沢田綱吉は見知らぬ街路を駆けていた。

 見知らぬ街路…… いや、そうじゃない。

 そうじゃないんだ。

 知っているはずなのに、知らない。

 見知った、通い慣れた、赤い石畳のはずなのに。

 絡みつくブレザーの裾を翻しながら、踵は地を掠めるように鋭敏な音を鳴らす。

 時に強く。

 常に弱く。

 刻むリズムが徐々にスピードを落としていくのを自覚しながらも、奥歯を噛み締めて俺は前を見据える。

 決して止まってはならない。

 決して、足を止めては、ならない。

 少しでも速く、遠く。

 出来うるだけ長く、先へ。

 距離を開けなければ。

 距離を、離さなければ。



 ふいに見上げた空は漆黒。

 他者を寄せ付けぬ、他者をも喰らい尽くす、真正の黒。

 それは記憶のどこにも存在しない空だった。

 夜だけれど、夜ではない。

 月以外の星々を拒む、インクをぶちまけたような、胸を詰まらせるような、黒だった。



 肺を、肩を、上下させる度に響く己の呼吸音がわずらわしくも耳に残る。

 吐き出す毎に己の両頬に沿って降りかかると息が、瞬間的に視界を阻んで厄介だ。

 カツカツと。

 響き渡るのは靴音だけでいいのに。

 なのに。

 なのに。





「喰ラワセロ。喰ラワセロ。黄金、黄金、オウゴンノ――」





「…… っ!」

 背後から押し迫るおぞましい気配に背筋が竦みあがった。

 なんだこれは、と問うより早く、これは嫌だ、怖い、という思いが先行していく。

 捕まれば一時のうちに痛みと恐怖が自身を埋め尽くすことが容易く想像出来てしまう。

 振り返ってはならない。

 振り返りたくはない。

 あんなもの、眼に映すのは一度だけでこりごりだ。



 そう。一度。



 見てしまった。見つかってしまったのだ。



 通い始めてもうすぐ二年が経つ古びた学び舎。

 遠縁の伯父の紹介で招かれた街一番の伝統ある学校で、心許しあえる友人にも出会えた。

 ただ、俺の頭が、要領が、人より悪いばっかりに。

 陽はとうに落ちた時分、毎度ながらの補修を終えて、とっぷりと夜の気配に包まれた校舎を抜け、荘厳なチャペルを有する我が母校に背を向けた瞬間。



 俺は、黒の世界に囚われていたのだ。



 たった一歩、踏み出したその刹那に。

 前にでた左足がズブリと微かに沈み込むような感覚と共に。



 校舎の終わり、小さな広場の先、鉄と鉄とが組み合わさった門扉の前で。

 両脇に散った木の葉が風に舞う、瞬間―― 刹那―― 一時の間に。

 静寂と混沌が、世界を暗転せしめた。



 そして見つけてしまった。

 見つかってしまったのだ。



 己の身の丈の二倍、三倍はあろうかという黒い塊が。

 手足、というよりは四肢といえる突起を地面に突き立てて進む塊が。

 燃える火をそのまま閉じ込めたような瞳を弧にしならせた塊が。



 ニヤリ、と笑んだのを。



 表情があるわけではない、だろう。人の顔などではなく、動物とも言い難い何かの凝固物だ。

 けれど。けれど。

 引き絞られた己の右目が、感じたのだ。

 警鐘の鳴り響く様を。



『コレは危険だ。逃げなければ』と。



 運動神経は鈍い方だ。

 どんくさい、といってもいい。

 しかし、この時ばかりは本能が勝った。

 疼く体の芯が望むままに駆け出し、息を乱れ崩す。

 容赦なく体内へと突き刺さる冷たい空気の流れに肺が痛むのを感じながら、先へ、先へと。

 関節が軋む。

 伸びきった筋が収縮を拒む。

 乱れた呼吸が心臓を絞めつける。

 それでも。それでも。それでも。

 ああ、こんなことならば、日頃から少しでも、運動と呼べる類に熱意の一欠片だけでも傾けておけばよかった。

 いつの間にか、両手が空になっている。

 校舎を出た時には確かに鞄の柄を握っていたはずなのに。

 【奴】に出くわした時、か。

 校門の辺りに落としたか。

 はたまたいずこかもしれぬ道端に振り落としてきたのか。

 中には学生証も、教科書も、友人から借りたノートも入っているというのに。

 明日からどうすればいいのだろう。

 俺はどうするつもりなのだろう。



 いや、そもそも。






 俺に【明日】はあるのだろうか。






 不穏な言葉が俺の脳裏を駆け巡り、脳天から足先まで悪寒が駆け抜ける。

 ぞくり、と。

 ずるずる。ひたひた。ぞろりぞろり。

 背後に追い迫る奇妙な擬音が近づくのを感じながら。

 ぞくり、ぞくりと。

 肌をなぞる悪寒に嫌な予感が沸き上がる。

 こんなところで。

 こんなときに。

 右目が、熱を持って訴える。



【危険】を。



「っ!」

瞬間、硬い革靴のつま先が沈む。

足全体ではない。つま先だけだ。

何かに引っかかったように、クン、と下がったつま先は左足。

咄嗟に手を伸ばしてみるも、縋れるものに恵まれなかった俺は、重力の導きのまま、大成を崩して膝から掌、肘へと前のめりに倒れ伏していった。

乱れ、途切れた靴音が長く続く街路沿いの建物、組み合わされたレンガに突き当たって、右へ左へ反響する。

小さな、普段目に留めることのない砂利が掌に突き刺さって痕を刻んだ。

「痛っ――」

 声に出した途端、痛覚という痛覚が自覚をともなって神経を研ぎ澄ませ、悲鳴を上げる体から痛みを拾い上げていく。

 痛い。痛みが。

 蛇が絡むがごとく、痛みが全身を這いまわる。

 無意識の内にせき止められていた荒い息も、不足分を補おうと活発に肺を上下させ始めた。

 止まってしまったら、再び駆け出すには倍以上の労力と精神を要するというのに。

 俺は、怠け者だから。

 俺は、臆病だから。

 俺は、限りなく卑怯者に近しいから。

 だからこそ、理解していること。

 一度止めてしまったことを再び始めたとしても、そう長くは続かないということを。



「は、はぁ、はー、はー」

 空気の出入りに沿って声音が漏れ出し始めた。

 順じて動く方は上下ではなく、細かく左右に震えている。

 両掌を地面に突き立てた俺は、胸、肩、指を辿って膝まで、なめるように視線で確かめていく。

 これは、だめだ。

 先程まで、極度の、過度の、唐突な運動は俺の体に多大なる負荷をかけ続けていたというのに、それを意識の内から除外していた。ただ無心に走り続けていたから。

 ならば、運動を止めてしまえば?

 必要な情報がなだれ込んできた意識は、どうなる。

 俺の体があげていた悲鳴を聞き入れてしまえば?

 決まってる。

 俺は。

 俺は、もう。



「喰ラワセロ」



「ひっ……!」



 気配すら読めぬまま、気付けばすぐそば、背後にまで迫っていた黒い塊。

 ヘドロのようで、重油のようで、しかしそのどれよりも明確に物体を持っているそれ。

 月光に照らされた全身がヌラリ、テラリと光を弾きながら、流動しているかのようにも思える。

 それが、ひどく緩慢な動作で頭部を傾けた。

 背後を振り返り、壁際へ追い詰められたが如くズリズリと身を引き摺りながらも、挫けた膝を笑わせて立ち上がることの出来ない木偶のような俺へ。

 覗きこむ。

 確認するように。

 見定めるように。

 値踏みするように。

 舌なめずりの如く。



「見ツケタ。黄金瞳。見ツケタ。見ツケタ」



 そして喚起に咽ぶが如く。

 上体を反らし、点を仰いだ塊は黒の四肢を地面に突き立てながら声を上げた。

 ノイズが混じるけれど、湿り気を帯びたような、生の声音。

 鼓膜に纏わりつく音に、思わず耳を塞ぎたいと求める本能に反して、掌は縫い付けられたように地面へと吸いついていて。

「喰ラワセロ。黄金瞳。ソレガ、ソレダケガ、ココヲ脱スル導トナル」

「し、導?」

 ここを脱する、導。

 恐怖だけをもたらす声が紡ぐ言葉に、何かが引っかかった。

 刹那、右目が収縮するように痛んだ。

 まるで縋りついているかのように。

 引き剥がされんと、拒んでいる。

「あ、う……」

 開けていられないほどに。

 思わず右目だけをつむり、やっと地面から解き放たれた掌で覆う。

 闇が、追い迫る。

 体を擦りながら後退するも、いつのまにやら壁際へと追い詰められていて。

 逃げ場は、失われた。いや、自ら、失ってしまった。

 急速に冷え始めた両足は、もたらされる死を認識したのだろうか。

 死? 死ぬのか? 俺が?

 奴はひたすらに眼を狙っているようだ。

 なら、抉り取られるのだろうか。

 黒の四肢の先端を伸ばし、鋭利で鋭角な切っ先が、俺の眼を抉り取るのだ。

 主を失った眼光からは血が滴り、訪れる痛みにのたうちまわるのだろうか。

 過多の出血えじわじわと、俺は殺されていく。

 いや、奴がただ眼球を奪うだけで満足するとは限らない。

 全身を隈な剥ぎ取られ、抉り出され、咀嚼され、苦痛という苦痛で彩られながら死へと堕ちていくのかもしれない。



 そんな。

 そんなこと。



「う、うあ、あああああ」

 認められる、わけがない。

 想像力が働く限りの死の想定に、意識がかき乱される。

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。

 こんなところで、こんな奴に、こんな風に。

 殺されるなんて。



「喰ラワセロ」



「嫌だ!」


















「なら、立てぇ!」



両手で顔面を覆い、反射的に俯いた俺の頭上へと、見知らぬ声音が空を切り裂き、振り下ろされた。






「気に食わねえなあ! 殺られたくなければ殺ればいい! 力がないなら逃げ続けろぉ! それすら出来ねえならまず喚く権利を放棄するんだなぁ! うぜえぞぉ!」

 ガン、と地面を強くける踵が、下を向く視界の端に映りこんだ。

 腹の内に燃え盛り渦をまく憤りの炎を叩きつけるように。

 ガン、ガン、と。

 打ち付ける踵は闇にも似た黒。

「立てぇ! 何度も言わせるなぁ!」

 鋭い恫喝が全身を硬直させた。

 反射的に顔が上がる。

 弱々しい掌という名の盾から、意識ごと前を向く。



 その人は俺に背を向けたまま、一瞥もくれぬまま、眼前の黒塊と対峙していた。

 風が消える。

 空気の流れが失せる。

 吐息すら、掻き消えた。

 長身の痩躯。

 月光を浴びる髪は白。陶器を思わせる滑らかさ、かつ無機質を思わせる流れは腰元まで伸びて。

 纏う衣服は全て黒だからか、何よりその白が印象的で。

 いつか、何かの本でみた、陶磁器のようで。



「う゛お゛ぉおい!!」

 人の姿をしているのに、人ならざるもののような――。

 激しい違和感を俺の中に投げ落とした。



 記憶がフラッシュバックするかのように。

 そこから先は全てがまるでコマ送りだった。

 無意識のまま、奮い立たせる声音の導きのまま、軟弱な足が俺の意思を汲み取るより速く、本能に従って壁へと寄りかかりながら立ち上がったのを、彼は感知したのだろうか。

 四肢を勢いよく振りかぶり、眼前の彼を無視して、黒塊は俺へ向けて鋭い足を延ばしてくるのに対し、彼は酷く些細な動作でもって、奴を霧散させたのだ。

 掌底を叩きこむみたく、脇を締め、腰元辺りから突き上げながら。

 触れあった、刹那に。

 どろどろに濁りあう黒の塊は、気化を思わせるほどの微粒な霧へと変わり、空気に溶け込んで。

 瞬時に、霧散した。

 あまりに呆気なく。

 とてもとても唐突に。

 急転する事態に俺は唇を開いたまま、茫然と前を見つめることしかせずに。



 だから。



 振り返った彼の瞳に射すくめられて、身動きひとつ取れなかった。



 白い。

 銀色。

 いや、銀よりも幾分輝きの強い、白銀。

 見たことのない色の瞳に貫かれて、体が引きつり、動かない。

 無防備極まりない状況の下、彼から腕が伸びてくる。

 先程の塊と同じ…… いや、現実味のある衣服の黒が、まっすぐに迫ってきて。

 白手袋に覆われた指先が、配慮の欠片もなく俺の顎を掴み上げた。

「なっ…… あ……」

「黄金の妖精眼…… 黄金瞳か」

 ツイ、と視線を狭めた彼は、空いている反対側の手で右目の下瞼を押し下げる。

 右眼。

 俺にとっての右眼…… その瞳は、異常としかいいようのない状態にある。

 一昨年の冬の始まり。

 丁度、今から二年ほど前の頃だっただろうか。

 空気の軋む冷え込んだ朝に、鏡を見て、己の変化に息を呑んだのだ。

 右眼が。

 瞳が。

 人より色素の薄い、琥珀のような橙の瞳が。



 色素を抜かれたかのように、黄金へと変色していたのだった。



 猫のように縦に長い動向を伴って現れた金色。

 病気かと思って医者に見せても、異例、異端、原因不明のはてに、危うく研究対象として扱われそうになったところを、両親を通して遠縁の伯父に助けられたのだった。

 幸い、ジュニアハイスクールに入るより前のことだったので、現在近しい友人には俺のコレは生まれつきだと押し通してある。

「通常の瞳から急に変化した」というのと、「生まれつきこのような奇妙な瞳なのだ」と言い張るかの選択は、激しくぐらつく天秤であったのだが……

 正常から異常になるのと、異常を常として認識するのとはニュアンスが大分違う、とこれも伯父の言葉で。

 コレがなんなのか、俺は知らない。

 知りたいと思う反面、知れば後悔するやもしれないと怯えていたおかげで追及することもせずにいた、のに。

 彼は。



「黄金瞳。持ち主がこんなところにいるとは、なぁ」



 今、俺の瞳を直視する彼は、知っているのだ。

「……」

 意図して唇を開いてみても、続くはずの言葉は生まれなかった。

 何を言えばいいのだろう。

 何と言えばいいのだろう。

 訊けばいいのだろうか。しかし、何と?

訊いて答えが返ってくるのだろうか。

そうとは思い難いのは、散々不機嫌そうな顔で、声で、怒鳴られ続けたからだろうか。



「しかし…… お前みたいなちんちくりんが黄金瞳なんざ…… がっかりだぜぇ!」



「…… え?」



 俺の顎からぱっと手を離した男が、屈めていた上体を伸ばしながら、大仰に声を上げた。

 見下すように顎を開き、唇を下品にゆがめ、唾を吐き出すかのように。

 なに? がっかり?

 冷徹さばかりを醸していた彼から、突然、怒りのような、悔恨のような、あからさまにわかりやすい癇癪のような感情が噴出してくる。

「それとも、なんだぁ? 実は拳法の使い手だったりするのかぁ? 日本の血筋なら、柔道とかいったかぁ?」

「い、いえ、そんな、ことは」

「ならやっぱりただの餌かぁ」

「え、餌?」

「まあいい。とりあえずこの薄暗い世界を作ってた怪異は倒しちまったからなぁ。さっさと行くぞぉ!」

「へ!? え!? 行くってどこへ…… ええええええ!?」

 物静かで、冷徹な瞳の、白刃の切っ先のような鋭い印象―― だったはずの彼は、俺が眼を白黒させているうちに、子供のような感情を吐露しながら、何もかもを自己完結させて。

「う゛お゛ぉい! ぼーっとしてんじゃねえぞぉ!」

 何より、俺が真っ暗だと思っていた世界を『薄暗い』と表現する辺りがどこかズレていると気付いてしまった俺を、まるで荷物のように抱えながら―― 跳躍した。

 どこに連れていかれるというのか。

 俺の腰に腕を回して軽々と持ち上げた彼が、家々の壁を蹴って飛ぶ様に、ひいいいと悲鳴を上げながらも、抵抗する術を見いだせない無力さ。



 これが、白磁の旧神の印、スペルビ・スクアーロと、俺、沢田綱吉との些細な…… 些細な出会いだった。















「餌……」

「そう。餌だぁ。恰好のな」

 クリスタルがいくつも連なるシャンデリアが視界の端をチラつくのに気を取られそうになりながら、俺はやけにフカフカでしっとりと尻に馴染むソファの上で縮こまる。

 壁紙は、ナチュラルホワイト、というやつだろうか。やけに写実的でだからこそ気持ちの悪い、どこのじいさんだかわからない人物画はいかにもお高そうな金縁の額に飾られている。

 磨き上げられたテーブルの木目は規則正しさの中に歪曲が組み込まれていて、それが芸術的だとでもいうのだろうか。

 俺にはわからない。

 わかるわけもない。ただピッカピカに光っているから、指紋」をつけるのも憚られて落ち着けないことだけは事実だ。

 サイドテーブルや棚など、所狭しと飾られた花々は、眼前の彼の仕業とは到底思えないから、サービスの一環に違いない。

 そして高々と足を組み、ドカリと深くソファに…… 俺の真正面に坐する彼。

 スクアーロ、と名乗った男は、俺の名を聞くこともせぬままに俺をこの場所へと放り込んだのだ。

 ここ―― 街一番の五つ星ホテル、リッツの最上階スイートルームへと。

「お前の眼、妖精眼はなぁ、魔力の塊だ」

「…… 魔力?」

 粗暴な態度とはまるで似合わない、夢物語みたいな単語を紡ぎ出すのに、思わず聞き返してしまう。魔力、とは。

「望むものを見る猫のような瞳。他者の心、常人では見えない剣戟、偽りの現実、無明の闇、異界への門、そして、ありとあらゆる異形」

「……」

「それら全てを見通すことが出来る、が、戦闘力は皆無だ。最強の最弱だぜぇ? 他にとりえもなさそうなお前なら誇ってもいいかもしれないなぁ」

 ニヤニヤといやらしい目つきで俺を眇め見る彼…… スクアーロは、悠々と足を組みなおしながら、顎を上げた。

 嘲りを含む高圧的な視線が、容赦なく身を竦める俺へと降り注ぐ。

「有する魔力量で右に出るものはないっつうんだからなぁ。有効活用できる素質があるなら話は変わってくるが…… 今のお前はただの餌でしかない」

 クツクツと、さもおかしそうに笑う様が、俺の琴線をチクチクと刺激する。

 望んでもいないのに、俺の意思全てを無視して、スクアーロは勝手に語ってくれやがった。瞳のことも。先程の一件のことも。

「アレはよほど切羽詰まっていたんだろうよ。俺がいるのを知ってなおお前を追うことを優先した。―― いや、俺がいたから尚更、か」

 ふん、と鼻を鳴らしながら首を傾けた拍子に、白銀の髪が流れてソファの背を滑る。

「奴らは己の作り出した闇の中から抜け出せない。だからこそ、出口をもみつけられるだろうお前の瞳を欲しがったんだろうよ」

 もしくは、高濃度の魔力を喰って、腹でも満たそうとしたか。

 再度、ふん、と。鳴らされた鼻は酷く不機嫌そうな風合いを醸していた。己の存在よりも俺を優先されたことが癪だったのだろうか。

 とはいえ、俺は望んで追われていたわけではないし、命を狙われていたのだからたまったものではない。

 同情されることはあれど、羨まれるなどもってのほか、なはずなのに。

「つまり今回遭遇したヤツに類似したものが存在する限り、お前は何度でも奴らが作り出す闇の世界に引きずり込まれて追い回されるってわけだ」

 それこそ、命をなくすまで。瞳を奪われるまで。

 右眼に宿る魔力が甘美な匂いを発し続ける限り、飛び込む虫が減ることはない。淡々と語る口調は酷く軽薄で、実に他人事の様相だ。

 当事者である俺さえも、その口調にほだされて、聞き流してしまいそうなほどに。

 しかし、流してしまうにはあまりにも大きな問題だった。

 追われる? 追われ続ける? 俺が? アレに? いつまでも?

 耐えられない。耐えられるわけがない。

 今でもアレが夢ならば、と。

 いや、もしくは、今もまだ夢の中なのかもしれないと思っている。思いたい、だけだけれど。

 自然と床へ。所在なさげにそろえた足先へと視線が下がる。

 これが夢ならば。あと数分後、いや、数秒後だってかまわない。全部夢で、目が覚めて、何もかもすっぱり忘れて。

 思い出そうとしても思い出せない、夢であれば。

 そんな現実なら、どんなにか救われることだろう。

 膝の上で制服のズボンを握る指先に力がこもる。

 皺をつけたら母さんに叱られるかもしれない。そうだ、母さん。もしこのまま、命を狙われ続けたりしたら、家も安全ではなくなるのかもしれない。

 誰かを、巻き込むことになるのかも、しれない。

 唇の端と端に力を込めて、引き結び、そっと瞼を伏せる。

「だから、俺が言うべきはただひとつ」

 そんな俺を知ってか知らずか、意識を引き戻すような快活な声音が、沈み込みそうだった俺の鼓膜を叩いた。

 引き寄せられるがままに視線だけを上げれば、腕を組んだスクアーロが背もたれに体を預けながら口を開く。



「お前は、俺のための餌になれぇ!」



「…… はあ?」

 何を言い出すんだろうこの人は。

 餌になれ? 『俺のため』? スクアーロのための餌?

 何それ。

 どういうこと?

「…… スクアーロが、俺を食べるってこと?」

「そんなわけあるかぁ!」

 あ、やっぱり違うのか。

 反論と共にソファから背を浮かせたスクアーロは、そのまま前のめりになって膝に腕を乗せた。

 半眼で俺を睨み上げながら、大きく深いため息をひとつ。

「カニバリズムの気はねえ。お前なんか食ったところで…… 骨と皮ばっかりで美味そうじゃねえしなぁ」

 肉の問題?

 いやいや、そういうわけじゃないだろう。

 …… でも、だったら一体どういう意味なんだろう。

「俺が奴を滅するところは見たなぁ?」

 問いかける彼に唇を横一文字にひきつらせたまま、頷くことで肯定する。

「俺には力がある。お前と違って、奴らを消し去るほどの力がなぁ」

 断言した。

 力強く、澱みなく、スクアーロは己の力を微かに誇りながらクッと口端を吊り上げた。

 その言葉に迷いがなければないほど、当然のことのように脳へと刷り込まれていくのだろう。

「お前には奴らに対抗する術を、自ら持とうとすることすら出来ないだろぉ」

 …… 持とうとすることすら出来ない、ということは、今後どのような成長を遂げたとしても、奴らを打ち砕く力を得ることはできない、ということか。

 悲しいことなのか、悔しいことなのか。

 俺は―― ほっと胸を撫でおろしていた。

「だからこその、取引だ」

 言いながら、組んでいた足をほどいて乱雑に両足が床を踏みつける。下に絨毯が敷かれていなかったなら、乱暴乱雑な地響きが俺の肩をすくませていたことだろう。

 微かに前へと身を傾けながら、ふっと眼を細めた。

 明らかに企みを含んだ、妖艶なようで、冷徹な、全ての行動が己のためといわんばかりの怪しげな瞳。

「お前は奴ら…… 怪異共をおびき寄せながら、闇の中を逃げ回ればいい。そうして俺の所へ連れてくれば、俺が直々に滅してやる。お前の眼は奴らを引き寄せる格好の囮だからなぁ」

「―― っ」

 なんてことを、言いだすのだろう。

 放たれた言葉の意味を噛み締めながら、把握した途端、俺は両手に力を込めていた。

 よりいっそう皺を寄せる、チェック地の制服。

 呼吸をするたびに、鼓動が大きく深く激しさを増していくようで。

「―― それは、俺に…… 何度もあんな目に遭えってこと、ですか」

 どくどくと、服の上からも見えてしまうのではないかという焦燥感に苛まれるほど、鼓動が勢いを増していく。

 呼吸が浅く軽やかになり、肺の収縮も回を増す。

 追い立てられる決意の淵で、蘇る情景が俺の背を押した。

 意図的に引き絞っていた指の力を解き放つ。

 覚悟と共にスクアーロの瞳を捉えれば、白銀がギラリと、外で交わした視線とは真逆の、血に飢えた獣を連想させるぎらついた光とかち合った。

 息を、飲み込んで。



「お断り、します」



 一言を発した刹那、きゅっと瞳孔を引き絞ったスクアーロは、瞬く間も要せず俺の言葉を理解したのか、体勢をより一層前へと傾けて。

 バン! と。

 空気を切り裂くような痛々しい音を響かせて。

 俺が触れることすら躊躇い、結局今に至るまで避けていたテーブルへと両掌を叩きつけていた。

「…… う゛お゛ぉい。お前、自分が何を選んだのかちゃんとわかってんのかぁ」

 奏でられた音とは裏腹に、抑え込まれた声音は地を這うように低く、暗く。

 容赦ない視線の強さに俺はぱっと顔を俯けた。そうしないと…… 言わなければならない主張を飲み込んでしまいそうだったから。

「俺は、もう嫌だ。追いかけられて、逃げ回って、死ぬかもしれないっていう予感に迫られて、限界を超えても走り続けて。そんな、そんな目になんて…… もう遭いたくない」

 彼が言ってきたことは、一見すれば俺を助けてくれるという風に聞こえるが、そうじゃない。俺が危険に迫れることを望んでいるのだ。逃げて、逃げて、逃げ回って。

 それで?

 もし彼のもとにたどり着けなかったら?

 彼が、同じ闇の中にいなかったのだとしたら?

 いつだって駆けつけてくれるとは限らない。むしろ、先程出会ったばかりで素性も知れない他人を信じて、恐ろしい目に遭うだなんて。

 不安ばかりが先立つ危険に身を晒しながら、それが終わることはないのだ。根本的な解決法を、探すことすら、せずに。

「囮や餌だなんて…… 嫌だ。絶対に」

 言い終えるや否や、俺はブレザーの裾をひき、正しながら立ち上がる。動きに合わせて上がるスクアーロの視線に気づかないフリをしながら、極力音を立てないように身を翻した。

「う゛お゛ぉい。どこへ――」

「帰ります」

 これ以上ここにいたならば、俺は彼の脅しに屈してしまうかもしれない。

 容赦ない視線に身を晒すのも限界だった。心が、折れそうになる。

「待てぇ! まだ話は――」

「助けてくれて、ありがとうございました。それじゃ!」

 失礼なことだろう。真意はどうあれ、一度は助けてくれた相手への礼を背中越しだなんて。立ち上がることを優先し、足早に扉へと向かいながら、唇を噛む。

 もう、だめだ。うるさくなる心臓が痛みすら帯びている。何を予感しているのか、それとも全てを見通すという右眼が何かを告げているのか。言い知れぬ気配がオレを苛む。

 これ以上ここにいてはいけない気がする。何かを、踏み外してしまうような気がする。

 カチ、と錠の上がる音と共に扉を引き、豪奢なカーペットと滲むような暖かみを広げる橙の灯りが揺れる廊下へと、素早く身を滑り出させたオレは、一目散に下界へと続くエレベーターのもとへと駆けていた。



 三角のボタンに触れれば、待っていましたとばかりにエレベーターは音もなく俺を招き入れてくれた。

 1の文字を押し、微かな光が灯ったことを確認した拍子に、音もなく空間が閉ざされる。

 静まり返った箱の中で一人、俺は一歩一歩を確かめるように後ろへと下がっていった。

 やがてたどり着いた壁際で、後ろ手に手すりへと両手をかける。

 彼は、追ってきているだろうか。

 …… 粗暴な彼のことだから、見切りをつけるのも早そうだ。俺のことなど、呆れて、すでに眼中から外しているかもしれない。

 乗り合わせる者のいない孤独な箱の中で、俺は隅へと身を寄せながら、ずるずると背を擦らせてしゃがみこむ。

 なんだろう。なんだったんだおう。

 あまりに非現実的なことが起きて、夢想のようなことばかり聞かされて、それを受け入れることを強要され、あまつさえ利用されそうになるだなんて。

 展開が急すぎて、理解は追いついているだろうか。

 あっけなく崩されてしまった日常。恐れていた、現実。

 知ってしまった。知らされてしまった。

 怪異とやらの、存在を。

 詳細を知るまではいかなかったが、存在自体を認識させられてしまったから、もう後には引けないかもしれない。見ないように、していたのに。気付かないように、目をそらしていたのに。

 俺は、アレに怯えながら生きていく以外の道を、失ってしまったのだ。

 スクアーロも言っていた。俺には、何の力もないと。

 この右眼だって、戦力になることはないと知らされた。

 瞳が…… 黄金瞳とやらが失われるまで、奪われるまで、抉り出されてしまうまで。

 もしくは…… 俺の命が消え失せるまで。

 いつ襲われるともしれない恐怖に身を晒して、生きていかなければならない、のか。

 己で行き着いた考えに背筋を震わせて、俺は思わず両腕で身体を抱き締めた。

 息が詰まる。反して、落ち着きを取り戻してきた鼓動の音が、鼓膜を撫でて意識の底へと染み込んでいく。

 瞳を閉じれば自身が無意識のうちに繰り返す呼吸を感じて、包まれる闇の穏やかさに囚われる。

 ゆっくりと、ゆっくりと噛み締めるように味わって、そっと開いた瞼の先に小さな電光掲示が2から1へと数字を切り替える様を見届ける。

 一度強く瞼を閉じて、ふっと息をこぼす。

 帰らなければ。かえって、ごはんを食べて、風呂に入って、眠って、そしてまた朝を迎える。

 それでいい。それがいい。

 両膝に手を当てて身を起こす。

 さすが五つ星というべきか、さしたる負荷も騒音もないままに辿り着いたロビーは、クラシック音楽がささやかに奏でられ、柔和な灯りが満遍なく世界を照らしている。

 闇の欠片も寄せ付けない、と思えるほどに、明るく、明るく。

 その様子が…… 分不相応な場でありながら、ひどく深い安堵感を呼び込んだ。

 一歩前へ。

 と、脳裏に情景がさっと横切る。

 校門で、外へと踏み出した瞬間に、包まれた闇の世界の記憶が、瞬く間に呼び起こされる。

 ビクっと震えた肩に気付かないフリはできない。

 怖い。恐い。

 また、あのような場所に突然放り込まれたら、取り込まれたら、俺は、俺は――。

 怯えのままに浮かせた足の裏を地面につけることを躊躇いながらも、いつまでも微妙な位置で片足を浮かせ続けるわけにはいかない。

 身を浸す怯えに竦みながらも、拳を握って足を床へと差し出す――。



「…………」



 そりゃそうだ。そう何度もあってたまるか。

 踏み出したロビーへの歩みを刻む。

 何も、なかった。

 今までだってそうだ。この瞳になってから二年を要しても、今日になって初めて遭遇したという確率の低さなのだから。

 辺りを見回せば煌びやかで、終ぞ縁のないせかいだと思っていた高貴な雰囲気が充満しきっていて、今になって居心地の悪さを自覚した。

 さっさと帰ろう。一秒だって早く、一コンマだって速く。

 平凡な学生でしかない己の身なりを思い出して、瞬時に顔を俯けた俺は、拳を握ったまま足の回転速度を上げた。

 速く、早く、はやく。

 闇の世界で逃げていた時とは違う緊張と高揚が胸を塞ぐのを感じ取りながら、俺はガラス張りの回転扉へと手を伸ばした。

 完璧に磨き上げられ、覗き込まなくとも自分の相貌が写りこんでしまうのを見ないようにして、踏み出す。


 外へ。



 外へ。






「――っ」






 ぞ、と。



 背筋が、身体の芯が。




 凍った。









 違う。違う。これは、違う。

 夜の闇とは違う、べったりと貼りつくような黒。

 塗り固められ、凝り固まり、こびりつくように纏まった黒が埋め尽くす世界。

 ああ、ああ、どうして。

 懐かしいようで、忌まわしい。

 苛まれた情景が、蘇る。

「ひ、い……」

 眼前には、牙があった。

 ベトリと滴る唾液が纏わりついた犬歯が、俺の身体を一飲みにできるほど大きく顎を開いて咆哮を上げる。

 オオオオオオ。

 動物のそれではない。聞いたことのない、まるで悲鳴を思わせる耳障りなそれ。

 先刻の怪異とは形状の異なる…… むしろ程遠い、荒れ狂う大波のような勢いを孕む獣の姿。スクアーロが一瞬で滅したアレよりも、もっと明確な形を持って牙を剥く闇。

 違う。確かに、違う。けれど。



―― これも、あれと、同じだ。



 切迫する気配に圧されて、ジリ、と後退する。

 そうだ。扉があるのだ。今出てきたばかりの建物の中へ入って、紛れて、隠れて、やり過ごして。

 右眼はなんでも見通す、と言っていたのは彼だ。この闇のことを現実と捉えるならば、彼の言葉の信憑性も確かだと思っていいのではないだろうか。

 中へ。

 そう思って背を向け、回転扉へと身を滑り込ませようと―― したのだ。



「え?」



 壁だ。

 よくよく見れば赤レンガの積み上げられた、ありふれた形の壁だった。

 どこにでもある、どこででもみられる、そんなタイプの壁だった。

「どう、して……」

 ホテル、だったのに。

 出てきたばかりだったのに。

 混乱に渦巻こうとする脳内へ、冷や水が落とされる。

 右眼からもたらせる、理解。

 思い出せ。ここは、なんだと言っていた。

 彼は、スクアーロは。

 ここは、奴らが作り出した世界だ、と――。



「ひっ!」

 地面を抉るほどの地響きと共に繰り出された爪が壁面を叩き壊す。

 寸でのところでしゃがみこみ、右へと転がるようにまろびながら、這いつくばって逃げ出した。

 右眼の赴くままに。あと数舜動き出すのが遅かったなら、確実に喉笛を掻き切られていただろう。右眼の誘導…… 本能、とでもいうべき力なのか、それはとても的確に俺を生かすポイントを見つけ出した。

 攻撃が当たらない場所を、目が自然と追うのだ。

 けれど。けれど。

 どうしても拭えない弱点がある。

 どうしても消えない重荷がある。

 それは―― 俺自身だ。

 戦闘力の皆無。運動神経の鈍さ。体力の容量の少なさ。

 全部が全部、負荷となって俺に襲いかかってくる。敵は奴だけじゃなかった。回避することすらままならなくなる我が身の方が、よほど厄介だったのだ。

「はっ…… はあ…… う、あ、ああ……!」

 左右に転びながら避け続けるのも、もやは限界だった。

 止む気配のない攻撃は、段々と俺の視界を曇らせ、手足を痺れさせていく。

 じわじわと、死の気配が俺を正面から包み込む。

 嫌だ、と思えども、もう、自分自身だけではどうすることもできないことを自覚していた。

 逃げられない。抗えない。

 俺は、こんなにも―― 無力だ。

 横転して奴の爪を避けた瞬間に、崩れた壁の破片に躓いてしまった。

「あ! う……」

 前へ倒れこむも、なんとか手をついて起き上がる、ことは、できなかった。

 前足が俺の身体のすぐ横で、圧とともに起き上がろうとする身を地面へと縫い留める。

 背後を振り返り、そのまま上へ、正面へと顔を向けた俺は、奴が歓喜に咽びながら雄たけびを上げるのを他人事のように観ていた。

 ずきずきと足首が痛む。

 もう、立ち上がれない。

【危険】を知らせて右眼が竦む。痛い。熱い。指先を当てた瞼の奥で、瞳が疼く。

 避けられるわけがない。

 ぱっくりと開いた犬歯が、まっすぐに獲物を定めていた。

 ああ、体ごと、この瞳を喰らう気か。

 なんて合理的。なんて即物的。

 血を噴き上げ、痛みに涙する隙もなく、俺は事切れるのか。

 息を呑み、瞼をぐっと閉じる。

 奴の牙が、空を切る音色を微かながらに、掴みながら。











『バカかぁ! 貴様ぁ!』











 声が、した。






 グン、と腹にかかる力に引っ張られ、俺の身は宙を舞っていた。

 あまりに急な加圧によって、胃液が食道を駆け上がってくるけれど、寸前のところで飲み込む。

 俺がまばたく間に、先程まで尻餅をついていた場所を奴の牙が抉るのを視界に収めた。

 深く風を切り裂く音と共に、足裏へと叩きつけるような衝撃が舞い込んで。

『そんなに死にたいなら無人島でもなんでも、誰にもみつからねえ場所でひっそりこっそり一人で死ねぇ! お前の瞳はなぁ! 奴らに奪われると厄介しか生まねえんだぞぉ!』

 黒の腕が、俺の腹を抱えていた。

 背後から覆いかぶさるように。

 頭ひとつ分高い身長の彼が、スクアーロが、俺を抱き締めながら、黒の獣と対峙していた。

 …… まただ。

 また、彼に救われた。

『大体なぁ! お前の瞳はお前の生き残ろうとする意志を汲み取って、回避の方法を探り出すんだろうがぁ! だったらどうなるか、少しは考えてみろぉ!』

 唇を開いていない。

 ギギギと目の前で歯の軋みを上げる獣を見据えたまま、スクアーロは唇をへの字に歪めて動かない。

 頭の中、体の中に直接響くような、声。

 見えないものをも、見る。感知する。

 これも、右眼の力なのだろうか。

『お前が奴らから完全に逃げ切るには、滅するしかない。だったら自然と、俺が居る場所に導かれるに決まってるだろぉ!』

 ぎゅっと。抱え込む腕の力が増したかと思えば、再び俺の身はスクアーロの跳躍する力に従って宙を跳ぶ。

 風に流されるように、後方へ。

 ふ、と彼が吐いた息が首筋を擽る。

 闇の中で映える白銀の髪がちらりと視界をよぎって、跳ねる。

 正面からは恐怖が。

 背後からは希望という名の絶望が。

 俺に、選択を迫る。



「怠けるな。怠るな。頭を使え、クソガキ。何をどうするのか。何をどうしたいのか―― 生きるための最善を選び取れぇ!」



 頭の中にではない、直接鼓膜を叩く声音が、脳天めがけて降り注いだ。

 スクアーロの左手が俺の身体を掠めて前へと差し出される。

 手首には、見慣れぬ白刃が括り付けてあった。



 選ばなければならない。望めば、彼は俺を助けてくれるのだろう。…… 望まずとも、今回だけは、救われる。

 けれど次はない。

 次に繋げるには、彼が提示した条件をのまなければならない。

 けれど…… 何が目的かもわからず、どこの誰かもわからない。名前しか知らされない相手の言うがままでいいのだろうか。

 他人の心も見通せるならば、右眼が教えてくれてもいいはずなのに…… 何も紐解いてはくれない。俺の選択を、待っているからなのだろうか。

 それとも――。

 腹に回った腕の先、白手袋に覆われた掌が、俺の脇腹へと吸いつく。

 衣服越しにでもわかるほど、彼の手は冷たかった。やはり『人』とは思えぬほどに。

 けれど、ぶつけられる感情は、エゴは、身勝手さは、傲慢は、誰よりも人らしくて。

 …… 信じきれるわけじゃない。

 委ねきるわけでもない。

 守られるばかりでもないし、結局俺は自分で彼を見つけ出さなければならないのだから。



 でも、俺は。





 それでも、俺は。





 俺は、生きたい。




















「俺を助けろ、スクアーロ!」







 回された腕に、持てる限りの力でもって。

 親指を、人差し指を、中指を、薬指を、小指を。

 託すように―― 爪を立てる。



「上等だぁ!」



 途端、ニイ、と唇を弧に歪ませたスクアーロが、白刃を真横に振り払う。



「う゛お゛ぉい! 残念だったなぁ!」



 彼の嘲笑は、真実、怪異に向けられたものだったのか。

 それとも、これから先、彼のため、己のために闇の中を逃げ回らねばならない俺へと手向けられたものだったのか。

 無明の闇が切り裂かれた夜。

 彼の腕に庇護されながら。

 俺はそっと、閉じた瞼の奥で疼く右眼が囁くのを、黙したまま耳にした。














【待て。しかして希望せよ


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